(3日目)
この日も朝食を済ませて、先ずは西安市内の観光に出かけた。最初に市内の南東にある大雁塔を訪れた。ここは三蔵法師がインドから持ち帰った経典を翻訳するのと仏像を保管するため建造され、境内には黄金の大仏殿、元果院などがある。もともと大雁塔は652年、5層の方塔として造られたが、その後現在の7層の方錐形の塔となった。我々はチケットを買って7階の頂上を目指し、らせん状の階段を登った。この塔から見る西安市内の町並みはまた格別のものであった。
次に、碑林博物館を訪れた。この博物館は1087年に孔子廟の建物を利用して作られたもので、8万点に及ぶ貴重な文化財が収蔵されている。同行した私の甥は書家であり画家でもあるため、この博物館を訪れるのを一番の楽しみにしていた。彼の父である私の実兄は中国国家に文人として認められ、この碑林別館にその書が収められていると聞いていた。しかし今回はその別館には立ち寄ることが出来ず、それを見ることが出来なかったのは残念であった。ともかく書道愛好家にとって必見の場所であるようだ。
早めの昼食をこの近くのホテルで摂ることになった。ここは西安名物の麺で有名であり、料理人が我々の目の前で数々の麺作りを披露してくれて、その味も抜群であった。腹ごしらえの後、予定では清真寺、そして有名な骨董街である「化覚港」と「回族の町」に行くことになっていたが、甥と私の二人だけは別行動をとった。それは西安市内中心部から西へ30分ぐらいのところの唐代の開遠門があった場所に造られた石像群を見に行くためだ。この石像群はシルクロードの出発風景を再現したもので、長さは100m近くにもおよび、往時の商隊の情景をひととき思い浮かべることができて、貴重な体験となった。
その後、再度我々二人は西安中心部に戻り、ツアーグループと合流して東、西、南、北大街の交叉点に立、町のランドマーク的存在である鐘楼へ向かった。鐘楼は、鐘鼓楼広場を挟んで北西にそびえる鼓楼と対をなす明代を代表する木造建築だ。ここでは明の時代の掛軸や書、インドから伝わった手作りの絨毯などが数多く展示・販売されていた。現在中国では、経済の発展と共に民芸品(手工業品)は高く売れなくなってしまったらしく観光客目当てに、これらを安く販売していたのだ。この建物を出て、城壁の上に造られた道を散策した。これが何と長さ10km以上あり、4周と少しでマラソンコースになると言い実際に使われているという、この広大さにはただただ驚いた。
そして一度ホテルに帰り休息の後、西安名物の火鍋(日本のしゃぶしゃぶに当る)をたらふく食べ、夜は陝西歌舞大劇院で唐の時代を模した歌舞ショーを楽しんだ。ここは世界的に有名な大劇場であるため、場内は世界各国から訪れた観光客で満席だった。ショーはもちろんすばらしかったが、私は旅行の疲れのため、実を言うと居眠りしながらの観劇となってしまった。と言う訳でその後ホテルに戻り、爆睡したのは言うまでもない。
(4日目)
最終日は久しぶりに遅い起床で、ホテルの出発も9:30であった。空港に行く途中にある最後の観光地大明宮、漢の時代の皇帝の父君が住んでいたと言われる宮殿跡に行った。とにかくこの場所は規模が広大であり、それだけで驚いてしまった。その一角に漢の時代の品々を展示する博物館があり、その隣には当時の焼物の釜元を再現したものが展示されていた。その大明宮の入り口付近に半分壊れたような宮殿があった。それは何と2年後に開催される北京オリンピックの誘致のために造られたハリボテ宮殿であり、実に上手く造られていて、さしものオリンピック委員会もこれに惑わされたとしても不思議ではないと思った。
今回、西安を訪れて興味を覚えたのは、中国の長い歴史の中で重要な役割を果たしてきた農産物や紡績(シルク、綿)工芸品がこの都市によって連綿と守られ続けてきたという事実である。また医療・厚生について現地の人に取材したところ、保険にはサラリーマンが会社で入るものと自営業者が保険会社に入るものの2種類があり、医療費も1ヶ月400元かかり病院は国立が多いことが分かった。給与は5〜6000元/年(3万円前後)で失業率は30%、市民の娯楽はマージャン・将棋、若い世代ではディスコ・カラオケなどである。私が一番興味を持ったIT関連について、西安は海・空の交通が不便であるため外資企業の進出は未だ十分とは言えず、まだ大きな発展はないようであった。最後に西安の将来について尋ねたところ、多くの一致した意見としては、観光業が経済の中心になるだろうとのことであった。
以上わずか4日間ではあったが、奥深く西安を体験できたことは幸運であった。
|